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極真道場 千葉県北支部の歴史

1994年 「大山総裁亡くなられる」

極真会館は国内・海外にその勢力を発展させ、会員数も選手層も、選手の技術的レベルも頂点に達していた1994年4月大山倍達は死去する。
一代で全世界120カ国1200万人の組織を作り上げた空手界のカリスマが後を託したのは、天才空手家32歳の若きリーダー松井章圭だった。

大山総裁は、亡くなる1年ほど前から総本部の黒帯研究会の指導を松井に任せており、ブラジルで行われた大会や亡くなる直前にネパールで行われたアジア空手道選手権大会には「君が私の名代で行きなさい」と明言されていたことは周知の事実だった。

遺言には5名の立会人が、「二代目は松井章圭にするので協力してやって欲しい」と大山総裁の口から直接聞いていることや、二代目として有力候補であったであろう国内の支部長にも「二代目は松井にしたから協力してやってくれ」と話していることを当時総裁の身の回りのお世話をしていた内弟子も聞いていることから大山総裁は二代目を松井章圭に託したことは疑いのない事実であった。

また、極真会館の二代目を継ぐ松井章圭の行く末を案じていたことも伺える。
当時の支部長の中でも一番末席で年下の松井章圭が組織の長に任命されたことで、実際に面白く思わず組織を離れていく支部長もあり、松井体制の初期はとても不安定な状態だった。そこで松井館長は、組織の安定を図るために直接の後輩である柿沼英明を千葉県北支部支部長に任命した。

1995年 「新生!千葉県北支部 奮闘する」

1995年4月2日、柿沼英明支部長率いる新生☆千葉県北支部・西船橋に本部道場をオープンし、柿沼支部長の母校でもある千葉商科大学に極真カラテ同好会を結成。また、習志野自衛隊にも同好会を結成する。
この年から、谷津干潟祭りや市川ふるさと祭りなどで演武会を開催。また市川市青年商工会などの依頼を受け市内小学校での国際交流会や船橋キャンドルアイフェスティバルなどにも参加し、ボランティア活動を通して地域に根ざす貢献活動を活発に行い始めた。

6月には第16回全日本ウェイト制空手道選手権大会が開催された。この大会は、11月に開催予定の第16回全世界空手道選手権大会の日本代表選手選抜戦を兼ねている大会であった。
新生千葉県北支部として初めて参戦する全日本選手権大会で瀬戸口が優勝し、世界大会の日本代表選手に選ばれ、新生支部の出だしとしては幸先の良い門出を飾ることが出来た。

初めて行われた夏季合宿は、後に全日本チャンピオンとなる木立・足立・門井を含む、本部直轄浅草・柏道場と合同して103名で行われたが、翌年からは千葉県北支部単独で合宿が行えるまでに会員数が増え、10月に千葉県北支部の職員第1号として佐藤正博が採用されるのを皮切りに山川知房・小野瀬寧・川島賢治と次々に職員も増え、新生千葉県北支部はその勢いを増していった。

1997年 「初の千葉県空手道選手権大会を開催」

6月、新生千葉県北支部として初の千葉県空手道選手権大会を主催。
先にも述べた通り、全日本や全世界で活躍する選手を大勢輩出する伝説の千葉県大会。
優勝は門井敦嗣、準優勝に高橋恒治、第4位・佐藤正博、第5位・山川知房と、上位入賞者のうち4人を千葉北勢が独占した。

1998年 「各道場・支部を開設」

第15回全日本ウェイト制空手道選手権大会に門井が参戦し重量級の部でみごと優勝。
柿沼支部長は行徳道場・稲毛道場と順次道場を増やし、7月には瀬戸口雅昭を独立させて下総支部を設立、12月には佐藤竜也を分支部長に就任させて五香道場を開設。新生千葉県北支部の土台作りが完成した。

1999年 「名門復活」

佐藤正博が1999年6月、第16回全日本ウェイト制軽重量級のベスト8に入賞したのを皮切りに、全関東空手道選手権大会で準優勝・第20回ウェイト制でベスト8に入るなど、千葉北支部の道場生がこのころから目立ち始めるようになる。
名門千葉北支部の完全復活である。

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