1981年 「第一次千葉県北支部黄金時代」
五十嵐・吉沢・西村を中心に第8回大会からの全日本空手道選手権大会に参戦するが、この頃は総本部全盛時代で東孝や広重毅ら本部の強豪選手たちに上位進出を阻まれ続けていた。
4月には第一回の千葉県空手道選手権大会が開催され、後に世界チャンピオンとなる松井章圭・緑健児、全日本ウェイト制チャンピオン柿沼英明、全日本ベスト8の湯沢元美、白石昌幸、など全世界・全日本選手権大会で活躍する有望な選手が首都圏から多数参戦し、大会は大いに盛り上がった。
結果、優勝は五十嵐裕巳(23歳)、2位松井章圭(17歳)、3位柿沼英明(17歳)、4位緑健児(17歳)と大人の大会でありながら高校生が3人もベスト4に入り、その3人ともが後の全日本チャンピオンになったことで今でも語り継がれる伝説の大会となった。
そしてこの年、第12回の全日本大会に初出場した松井章圭が、ようやく念願の4位入賞を果たした。
この大会後、五十嵐・吉沢は引退し、松井は大学進学と同時に総本部に移籍をした。
1982年〜1983年 「第二次千葉県北支部黄金時代」
五十嵐・松井・吉沢が去った後の千葉県北支部を支えたのは、第二回・三回の千葉県空手道選手権大会を二連覇した柿沼と第4回千葉県空手道選手権大会に優勝した佐藤竜也、そして年長者の高田朝磨。このメンバーが中心となり道場の指導にもあたっていた。
第13回全日本空手道選手権大会に柿沼(19歳)と佐藤(17歳)が初出場。
体重65kgで軽量の佐藤竜也がベスト16に勝ち上がり、この戦いぶりを見ていた大山総裁は「佐藤のフットワークは、オリバー(アメリカの強豪選手)のようだ」と感心されていました。
当時の全日本選手権大会の出場枠は各支部2名という決まりだったのだが、1982年の第3回千葉県空手道選手権大会を観戦した大山総裁が千葉県のレベルの高さを認め、この年の第14回全日本空手道選手権の千葉県北支部からの出場枠を5名に増枠した。当時としてはかなり異例のことで、千葉県北支部としては選手層が厚くなったことを総裁に認めてもらえた出来事であった。
その全日本大会の出場メンバーは柿沼英明・佐藤竜也・千葉信吾・関口渉・石橋繁樹の5名。千葉と石橋は大会初日に敗退したものの、千葉は2回戦で世界チャンピオンの中村誠戦で延長戦にもつれ込ませるなど、強豪相手に善戦した。
大会2日目に残った3名だが、柿沼は全日本ベスト8に常連の増田章と、佐藤は現城西支部支部長の山田雅稔と、関口は南米チャンピオンのアデミール・コスタとそれぞれ対戦し熱闘を繰り広げるも3回戦目で敗退する。
1984年〜1986年 「千葉北支部、初の全日本タイトル、そして世界チャンピオンへ」
翌年の第15回全日本空手道選手権大会には佐藤・千葉・栗橋がエントリーするが、佐藤と栗橋は初日で敗退、千葉が二日目の三回戦で全日本チャンピオン三瓶啓二と戦い敗退する。
6月、国内初の体重別の大会、第1回全日本ウェイト制空手道選手権大会が軽量級・中量級・重量級の3階級で開催された。柿沼は中量級で、千葉は軽量級でエントリーし、柿沼は安定した強さでみごと初代の全日本中量級チャンピオンに輝き、千葉県北支部では初の全日本タイトルを奪取した。
また、千葉も4位入賞を果たし千葉県北支部の強さを内外に示すことが出来た印象深い大会である。
この年の11月に行われた無差別級の第16回全日本空手道選手権大会には柿沼・吉野・細野がエントリー。初出場の吉野・細野は初日で敗退するが、柿沼は強敵を順調に退け2日目に勝ち進み、4回戦で黒澤浩樹に激戦の末破れ、全日本制覇の夢は断たれた。
大会後、柿沼・佐藤が就職のために引退し、道場の指導を次の世代の細野・吉野にバトンタッチした。
この大会を怪我で欠場していた松井章圭だが翌年には復活を果たし、第17回・18回全日本空手道選手権を二連覇すると、その勢いで第4回世界空手道選手権大会も制覇する快挙を成し遂げる。千葉北から世界チャンピオンが誕生した瞬間だ。
柿沼・佐藤が引退すると同じ頃、千葉県北支部の恩師加藤重夫先生は「打倒ムエタイ」の夢を追いかけキックボクシングジム藤ジムを開設し、後にK-1チャンピオンとなる魔裟斗選手などを育成する。
1987年〜1993年 「千葉県北支部低迷期に突入」
加藤先生・柿沼・佐藤が道場から離れてから大きな大会でなかなか良い成績が出せなくなり、何年もの期間低迷することになる。しかしこの低迷期に第8回千葉県空手道選手権大会優勝者の押山正を筆頭に、瀬戸口雅昭・木立裕之・塩島修ら若い選手たちが地道に努力を続けており、数年後には瀬戸口・木立・塩島はそれぞれの立場でその努力が実り全員とも全日本ウェイト制のチャンピオンに登り詰めた。